陽だまりの中で

~香川フリーランスのぼやき~

死体しか愛せなかった男!ジェフリー・ダーマーの犯行

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はじめに

こんばんわ

かなたです。

いやぁ・・・千葉県柏市の連続通り魔事件は実に物騒極まり無かったですね。

そんな犯人も捕まったようです。

通り魔、男逮捕へ 被害者と同マンション - 社会ニュース : nikkansports.com通り魔、男逮捕へ 被害者と同マンション - 社会ニュース : nikkansports.com

 まだ動機は定かではありませんが、人の命をなんだと思っているのでしょうね。。。

同じマンションの住人という事で何かしら因縁があったのは確かなのでしょうが。



 

ジェフリー・ダーマー

みなさんは「ジェフリー・ダーマー」という人物をご存知ですか?

ジェフリーも連続殺人を行った殺人鬼です。

ただ、今回の事件と違うのはジェフリーが本物の殺人鬼だという点です・・・。

そんなジェフリーについて今回は話してみたいと思います。

 

幼少期

ジェフリーは1960年5月21日にミルウォーキーで、父ライオネルと母ジョイスのダーマー夫妻の長男として生まれました。

研究にかまけて家庭を顧みなかった父と精神異常の母に育てられたジェフリーは精神的な安定を欠いた少年として成長していきます。

ジェフリーが6歳の時、母ジョイスが次男を出産する準備に入ると、ジェフリーは1日中ぼさっと座って動かなくなるという不思議な行為を見せるようになります。

彼は幼少時からほとんど笑わず、8歳の頃小学校の同級生から性的な虐待を受けていました。

学校時代には物静かでふさぎこみがちな一匹狼として知られ、一人で森をぶらぶらして過ごすことが多くなりました。

父から昆虫採集用の科学薬品セットをもらったジェフリーは夢中になり、猫や鼠の骨をホルマリンの瓶に採集して回わるようになったのです。

小動物の死骸を強酸で溶かして白い骨を取り出すのが面白くなり、事故で死んだ動物の死骸を集めて回ったそうです。

そんななか両親の不仲は年々悪化し、ジェフリーが高校生になった頃には家の中をロープで二分して住み分けるようになりました。

ジェフリーはますます内気になり空想を膨らましていくように。

1978年に協議離婚が成立し、父ライオネルは姿を消し、母は弟を連れて出て行きました。

母はジェフリーも連れて出ようとしましたが、彼は無反応であったと言われています。

当時18歳のジェフリーは「成人」とされ、裁判所も両親もジェフリーについては触れるのを避けました。

実質的に、ジェフリーは見捨てられた形になったのです。

 

第1の殺人

見捨てられたジェフリーは自分が同性愛者であることに気付き、その苦悩と孤独を紛らわせるため、アルコールに逃避するようになりました。

高校卒業を孤独のうちに迎えたジェフリーは、その数日後、町外れでロックコンサート帰りの19歳のスティーブン・ヒックスというヒッチハイカーを拾いました。

音楽の趣味が合い、また彼好みのタイプだったことから、酒とマリファナで自宅へ誘い、住んでいたころの思い出を語り聞かせたそうです。

ジェフリーは、人と打ち解けることの喜びを初めて味わったのですが、彼が父親の誕生日祝のために帰宅すると言い出したため、帰らせたくないジェフリーは手近にあったダンベルでヒックスを背後から殴り、気を失ったところを絞殺。

死体の衣服をはぎ取って肛門を犯したのち、ナイフで腹部を切り裂くと、鮮血をすくって体に浴びました。

その内臓を床に広げて血だらけにし、その上を転がって遊んだりしたのち、死体を床下へ運び込み、バラバラに解体したのです。

 

連続殺人

第2の殺人

1987年9月15日、保護観察期間が終わったばかりのジェフリーは、ゲイバー「クラブ219」でダイナーの見習いコックである24歳の白人青年と出会い、ホテルで一夜をともにしました。

ところが翌朝、目が覚めると青年は口から血を流して死んでいたのです。

自分が絞殺したことは間違いないのですが、泥酔していたため記憶もなく大変驚いたようです。

それでも、事態を打開するためにクローゼットに死体を隠すと、大急ぎでスーツケースを購入し、ホテルに戻って死体を詰めんでタクシーで祖母の家へ戻り、地下室で解体しました。

 

第3の殺人

1988年1月16日、「クラブ219」近くのバス停でインディアンの血を引く少年に目をつけると、ビデオのモデルのアルバイトをしないかと持ちかけて、祖母の家に連れ込みました。

そこで睡眠薬入りの飲み物を飲ませて絞殺。

解体したあとは酸で肉を溶かしたのち、骨を砕いて周辺にばらまいたのです。

 

第4の殺人

3月24日、「フェニックス」というゲイバーでヒスパニック系の青年を、やはりモデルにならないかと口説いて祖母の家に連れ込み、同様の手口で殺害。

以後、飲み物に溶かした睡眠薬で眠らせて殺害し、遺体を解体するというジェフリーのルーティンワークが確立したそうです。

ただ、このころになると、地下から漂ってくる異臭に、祖母はいいかげん耐えられなくなっており、ライオネルに電話して地下室を調べさせたところ、どす黒い血だまりのようなものを見つけてジェフリーを問い詰めますが、子供のときのように動物の死骸を酸で溶かしていただけだと弁解するばかりでした。

しかし、そろそろ一人立ちさせる頃合だと思ったライオネルは、ジェフリーに独立を促したのでした。

 

第5の殺人

1988年9月25日、ミルウォーキーの北24番街808番地のアパートに引っ越したジェフリーは、引っ越してから24時間も経たないうちに問題を起こしてしまいます。

翌日、ラオス人少年を自室に連れこみ、睡眠薬を飲ませたのです。

しかし少年はなんとか逃げ出して警察に駆けこみ、ジェフリーは未成年に対する性的暴行容疑で逮捕、1週間拘置されたのち保釈金を積んで仮釈放となりました。

ジェフリーの早期仮釈放申請について、父ライオネルは、治療プログラム終了前の息子の釈放に反対する手紙を書いたにも関わらず、ジェフリーは釈放されたのです。

4ヶ月後の1989年1月30日、ジェフリーは少年に対する性的暴行の罪で有罪判決を受けま、判決公判が4ヶ月後に開かれることになりました。

判決日を待っていた3月25日、ゲイバー通いを再開していた彼はレストランのマネージャーを務める26歳のハンサムな黒人青年と知り合います。

いつものように祖母の家に連れ込むと、睡眠薬入りの飲み物を飲ませ絞殺したのちに解体、ゴミ袋に詰めるという陰惨なルーティンワークがいつものように繰り返されたのでした。

祖母の家で犯行に及んだのは、警察が自分のアパートを監視していると思い込んだからでした。

このときジェフリーは、記念に頭蓋骨を取っておくことにしたそうです。

5月23日、判事はジェフリーに1年間の刑務所外労働と5年間の保護観察処分を言い渡しました。

この寛大な判決により、ジェフリーは日中は勤務先で働き、夜や週末は刑務所で過ごすことになったのです。

 

第6の殺人

1990年3月、ジェフリーは仮釈放となり、新たに北25番街924号にあるアパートに居を構えました。

ここはミルウォーキー有数のスラム街で、のちに「ザ・シュライン・オヴ・ジェフリー・ダーマー(ジェフリー・ダーマーの神殿)」として犯罪史に不朽の名を残すこととなるオックスフォード・アパートメント213号室でした。

新居に移って間もない5月、ジェフリーは犯行を再開。

犠牲になったのはイリノイ州の刑務所を出所して間もない青年でした。

 

第7の殺人

6月24日にはイスラム風に頭にターバンを巻いた、「シャリフ」という愛称で親しまれたゲイの青年がジェフリーのルーティンワークの素材になったのでした。

 

第8の殺人

7月にヒスパニック系の少年に手を出して失敗、危うく殺人が発覚しそうになったため、約2ヶ月の自粛期間を置きました。

9月3日にミルウォーキーの本屋の前で出会ったダンサーの黒人青年は、ジェフリー好みの筋肉質なハンサムな男でした。

いつもの手際でアパートへ連れ込み、睡眠薬を与えると2ヶ月間封印した破壊衝動を押さえきれなかったのか、喉を掻き切ったのです。

そして、いつものように解体しただけでは飽き足らず、なんと食人行為におよんだのです。

 

第9の殺人

さらに2週間後、行き当たりばったりで拾った23歳の黒人青年も、ダンサーと同じ運命を辿ります。

 

第10の殺人

1991年2月18日、19歳の黒人青年がまたもやジェフリーのルーティンワークの材料になりました。

 

第11の殺人

さらに2ヶ月後の4月7日、やはり19歳の黒人青年をオックスフォード・アパートメント213号室へ招待したのですが、このときはロボトミー手術を施そうとしました。

動機は殺して写真と死体の一部を残してもさみしさだけが募るから、それよりは自分の言いなりになる理想の恋人を自分の手で作り出そうというものだったようです。

しかし、頭蓋骨に穴をあけて塩酸を流し込むというおぞましい手術は失敗に終わり、結局いつものルーティンワークに戻ったようです。

 

第12の殺人

5月24日には31歳の聾唖者がオックスフォード・アパートメント213号室に消えたました。

 

第13の殺人

それから数日と経たないうちに、14歳のラオス人少年も毒牙にかけました。

このときはいつもの手順を踏まず、彼に睡眠薬を飲ませて性的暴行を加えたのち再びロボトミー手術を試みています。

その後、少年はジェフリーがビールを買いに出かけたすきをねらって脱走したのですが、意識がもうろうとしていたため全裸のままアパートのそばでへたり込んでしまい、一時アパート周辺は騒然となりました。

しかし、駆け付けた警官がジェフリーと恋人の痴話喧嘩だというそつのない説明を信用して引き上げてしまったため、少年は助からなかったのです。

 

第14の殺人

6月30日、シカゴでおこなわれたゲイ・プライド・パレード見物に訪れたジェフリーは、そこで新たな犠牲者を誘いました。

 

第15の殺人

それから5日後には再びシカゴを訪れ、23歳の黒人青年をミルウォーキーのオックスフォード・アパートメント213号室に誘いました。

このとき、青年の友人はジェフリーの誘いを受けるべきかどうか相談されて、「行けよ。彼、まともそうな感じじゃないか」と答えたですが、のちにこの友人は後悔の念をにじませながら、「連続殺人者が、どんな顔か知っている奴なんかいないよ」と語ったそうです。

 

第16の殺人

7月15日、ジェフリーは6年間勤務したアンブロシア・チョコレート社を解雇されました。

理由は頻繁な欠勤と遅刻、それにともなう勤務成績の急激な悪化でした。

また、家賃の滞納が続いたため、7月いっぱいで部屋の立ち退きを迫られたのです。

この頃になると、普通の人としての仮面をかぶり続けることすら不可能になりつつありました。

犯行も終盤を迎えると、かなり行き当たりばったりに犠牲者を手にかけるようになり、ただでさえ手狭な部屋はこれまで手にかけてきた犠牲者のバラバラ死体であふれかえり、異臭はもはやアパート全体を覆いつくすほどになっていたのです。

解雇通知を受け取ったジェフリーは、その日のうちに24歳のトラック運転手に声をかけ、いつも通りの仕事をしています。

 

第17の殺人

7月19日、ミネソタ州から仕事を探すためにミルウォーキーを訪れていた失業中の白人青年をオックスフォード・アパートメント213号室へ招待しました。

17人目の犠牲者でした。

 

ジェフリー逮捕

1991年7月22日午後11時30分。

北25番街を定時巡回していたラルフ・ミュラー巡査とロバート・ロース巡査は、「助けて!」という悲鳴を聞きつけ、すぐさまパトカーを急停車させると、前方から左手首に手錠をぶら下げた黒人の男がパトカーの方に走ってきました。

男は、近所のアパートに住む頭のおかしい白人の男に殺されかけたと訴え、ふたりは半信半疑ながらも男の案内でそのアパート──オックスフォード・アパートメントへ向かかいました。問題の男の住む213号室のベルを鳴らすと、ブロンドのハンサムな白人青年が顔を出した。

男は礼儀正しく警官に応対しましたが、背後から強烈な悪臭が漂い、さらによく見るとアルコール依存症特有の症状が出ていました。

男はジェフリー・ダーマーと名乗り、失業したばかりで酒を飲んだくれていたことや、悪ふざけで手錠をかけたことを申し訳なさそうに話しました。

警官が手錠の鍵を部屋に取りに行こうとすると、何かを思い出したように捜査を拒絶し激しく暴れ出したため、その場で手錠をかけられることに。

巡査の一人がジェフリーの前科照会をおこなったところ、1989年に少年に対する性的暴行で有罪判決を受け、5年間の保護観察下に置かれていたことが判明し、直ちに部屋の中を捜索すると、黒人青年の手錠の鍵とともに大量のバラバラ死体のポラロイド写真が発見されたのです。

さらに冷蔵庫から肉片や内臓などを入れたビニール袋、切断された複数の頭部が発見されました。

その後の家宅捜索で、容量260リットルのポリ容器からは酸で溶解された3人分の胴体をはじめ、着色された頭蓋骨が複数、キッチンの鍋からは切断された手が数本と男性器が1本発見されました。

床には引きはがされた皮膚や切断した指などが無造作に捨てられており、被害者のものと見られる運転免許証や社会保障カードなどの身分証明書のほか、死体の解体に使われたチェーンソーや解剖器具などが押収されました。

検死官が最終的にまとめた報告書によれば、発見された人体は全部で11人分だったようです。

また、捜索にあたった刑事たちの何人かは黄色い防護服に身を包み、防毒マスクをつけたまま捜索と証拠物件の押収に当たりました。

凄惨さを極めた部屋の家宅捜索では、数々の犯行現場に立ち会った刑事の中にすら気分を悪くする者がいたり、中でも人肉がぎっしり詰まった冷蔵庫が運び出されたときはあまりの悪臭に周囲の野次馬が後ずさりし、嘔吐するほどだったといいます。

 

おわりに

世の中には恐ろしい人もいるものです。

ジェフリーに比べれば今回の話はかわいいように思えるかもしれませんが、人の命は数などで測れるものではありません。

亡くなった方にもご家族がいます。

大切に思っている方々がいらっしゃるのです。

その方々の生きた年数ぶんの歴史を誰かが背負って生きていかねばならないのです。

人の命を奪うという行為は決して許されるべきものではありません。

成人でも未成年でも、殺害したのが一人でも複数でも

殺人犯には厳重な罰を与えるべきです。

死刑など簡単な罰ではだめです。

死ぬまで罪を償わさせるべきだと思います。

やはり人の痛みのわからない人間にはこういった処置しかないのでしょうかね・・・。